なぜ親鸞聖人は越後流刑になったのか

 
平安末期、法然上人が本当の仏教、阿弥陀如来の本願を大衆に
広められました。すると、多くの庶民に加え、貴族や武士、
仏教諸宗の学者までもが法然上人の元に足を運び、浄土仏教(※)を
熱心に聞き求めるようになったのです。
旧仏教といわれる天台宗や真言宗などは
「このままでは日本中が浄土仏教になってしまう」と危ぶみました。
その危機感は深刻なもので、何とか法然一門を解散させようと、
弾圧の糸口を探り始めます。当時、権力者に癒着(ゆちゃく)していた
彼らは、天皇を動かして一網打尽せんと企(くわだ)て、
その機会を虎視眈々(こしたんたん)と狙っていました。そして、
民衆が本当の幸福になる道を教える浄土仏教が、
鎌倉幕府の膝元・関東にまで広がると、幕府は弾圧を決定。
幕命で、法然一門は解散、念仏は停止、法然上人は土佐へ、
親鸞聖人は越後へと流刑になったのです。
親鸞聖人は、数々の悪所難所を歩かされ、流刑の地へと流されます。
そして、寒さ骨身に徹す豪雪の地で、約7年ご苦労なされました。
ところが、流罪の苦難も感謝へと転じ、親鸞聖人の前進は
止まることを知りませんでした。
『御伝鈔(ごでんしょう)』(※)には、
 次のような感謝の念が記されています。
 
恩師・法然上人が、もし流刑に遭われなかったら、
親鸞もまた流罪にならなかったであろう。
もし私が流刑に遭わなければ、越後の人々に阿弥陀仏の本願を
伝えられなかったに違いない。なんとありがたいことか。
全ては法然上人のおかげである。
抑(そもそも)また大師聖人(法然上人)もし流刑に
処せられたまわずば、我また配所に赴かんや。
もしわれ配所に赴かずんば、何によりてか辺鄙(へんぴ)の
群類を化せん。これなお師教の恩致なり。
(御伝鈔)
もちろん最初から、皆が喜んで仏法を聞いたわけではありません。
罪人の汚名を着せられた人の言うことに現地の人が簡単に耳を
傾けるはずもないでしょう。流罪の地で親鸞聖人は一軒一軒、
仏法を伝えに回られましたが、村人の反応は冷たく、
聞く耳を持たなかったのです。
親鸞聖人は、次の歌を残しておられます。
 
「この里に 親をなくした 子はなきか 
 み法の風に なびく人なし」
 親を亡くし、世の無常を知らされ、
 泣いている子は、この里にはいないのか。
 稲穂が秋風になびくように、
 真の法(教え)を求める人がない。
 
親鸞聖人は幼くして両親を亡くし、無常に驚いて仏法を聞くように
なられました。この里も、親を看取った人がいるはず。
それなのに聞く人がないとは……。
普通なら、「これだけやっているのに」と不遇を恨み、
やけになるか、だくだくと日々を送るだけになるでしょう。
しかし、親鸞聖人は違いました。
「お釈迦様が説いておられるように、遠い過去世から阿弥陀如来と
 深い絆で結ばれた人でなければ、今生で仏法を聞けないのだ」と、
仏法聞かせていただける身になった幸せを噛みしめておられます。
 
「阿弥陀如来の本願を、信ずる人もある、
                また謗る人もあるだろう」
と、お釈迦様は教えておられる。親鸞は本願に救い摂られた。
その親鸞を謗る者があってこそ、いよいよ「仏説まこと」と
知らされる。
 
「この法をば信ずる衆生もあり、謗る衆生もあるべし」
と仏説きおかせ給いたることなれば、
我はすでに信じたてまつる、また人ありて謗るにて、
「仏説まことなりけり」と知られ候(歎異抄)
 
かくも聞きがたい法を聞けた親鸞は、なんという幸せ者。
阿弥陀如来が特別なお慈悲をかけてくださったとしか思えない。
越後には弥陀の本願を知る人が誰もいない。流刑になったのは、
おそれ多くも阿弥陀仏が、じきじきに親鸞を派遣して、これらの人々に
お伝えせよとの御心に違いない。
ならば一刻も早くお伝えせねば、申し訳ない。
法を聞く人のないことが、かえって感謝のもとになり、
布教の原動力となったのです。
今日、新潟県の浄土真宗の寺院は川沿いに多くあります。
これは親鸞聖人が舟をも駆使され、広範囲にわたって仏法を
徹底された結果なのでしょう。
そしてまた、このように親鸞聖人が広く生涯にわたって、
すべての人が本当の幸せになれる道を伝えてくだされなかったら、
私たちも聞けなかったのです。
 
索引: 親鸞会『親鸞聖人とは』